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歴世女装考

勝山(かつやま)といふ髪の結風
勝山といふ髪の髻(ゆひぶり)、今も其名は残りつれど、髷の状は当世なり、古き形状は図おみてしるべし、此髻は二百年前承応の間、江都に名高かりし湯女(ゆな)勝山が結はじめたる髷也、此勝山湯女風呂国禁(ゆなぶろこくきん)ありてのち北廓に入り、かの高尾と時お同うして、その名ます〳〵聞ゆ、万治三年江戸板、高屏風管物語〈上巻〉に、北廓の茶屋の老婆、遊客に妓どもお指て名おおしゆる所、さて巴の御もんおめしたる、御としのほどはたちばかりの御方は、たぜん(丹前)のぜうさんとて、京田舎に名高き勝山さまとこそ申なれ、〈中略〉みどりなる髪おば手がはりにゆひなし玉ふとあり、此かつ山が結風、はやりつたへしとみえて、万治三年より廿五年のち、天和三年江戸板、浮世物真似口写、〈横本巻上〉花の露屋喜左衛門が〈芝宇田川町卜あり〉店にて、伽羅の油いひ立の詞に、まつた女中のだて風は、兵庫、つのぐる、いはしまだ、かつ山りうとあり、又勝山が廓に在し万治二年より廿四年のち、天和二年大坂西鶴作、一代男〈巻一〉に、そも〳〵丹前風と申は、〈中略〉風呂屋ありし時、勝山といへる湯女、すぐれて精もふかく、形とりなり髪のふり、よろづにつけて、世の人にかはりて、一流これよりはじめもてはやして、北廓へ出世して、不思議の御方までおもはれ、ためしなき女にはべり、又享保五年庄司富勝〈甚左衛門子孫〉が作の〈写本〉洞房語園〈同名の板本あり、是は別本なり、〉巻三、承応明暦の比、新町山本芳順家に、勝山といふ太夫ありし、〈○中略〉髪は白き元結にて片曲のだてゆひ、勝山風とて今にすたらず、