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歴世女装考

ちやん〳〵、おけし、はんかふ、
今俗にしやん〳〵(○○○○)とて、小児の髪お頭の左右へ残しおくは、礼記内則の為鬌とあるにおなじければ、古風なる事勿論なり、又おけし(○○○)とて、頂にあるは、罌子粟の実の〈○図略〉形に似たるゆえの名なるべし、清人は皆芥子坊主なれども、その以前明人の作りたる訳語〈全冊一〉に、髠頭為軽便、婦人至嫁養髪とあれば、女子は十三四まではおけしとみえたり、けだし明国同一の風にはあらず、さて又小児の耳の脇に毛おのこすおはんかふ(○○○○)といひしお、近年はやつこ(○○○)といふ〈田舎にてはそりかけ(○○○○)といふ〉奴はきこえたれどもはんかふの名義暁しがたかりしに、摂陽落穂集、〈写本、寛政の比大坂人詩因作、〉摂州有馬郡唐櫃村に限りて、半甲(はんかふ)といふ事あり、出生の小児の額と耳の脇に髪おおきて、うしろへはおかず、是おからひつ村の半甲といふ、近年見ぐるしとて然せざりし小児ありしに、危難にて死せり、村人等懼て旧例の如くにすとそ、小児の月代剃のこしたるお、浪花にて半、甲そりといへど、唐櫃村の事はしる人希なり、〈一慌全文〉此書にてはんかふの名義了然たり、