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歴世女装考

結髪(かみあげ)したる髪の形状の考
古書に結髪とある註釈に、髪おあげたる其髪の形状はしか〴〵なりと弁たる物、おのれ〈○磐瀬百樹〉が管見にはさらに見あたらざるゆえ、期やありけんと考へつれど、固浅学の陋説取にたらざれども、姑くしるして諸賢の教お俟、〈○中略〉唐輪といふ髷の名、日本紀に、角子お〈男の子にいふ〉あげまきからわと訓、太平記〈抄鐐、巻目痴脱せり、〉年十五六許なる小児の髪唐輪(からわ)にあげ蒼、又東曲殿前後の記録どもにもからわといふ名みえたれど、皆男の児のみにいへり、耳底記〈烏丸光広卿、細川玄旨と問答の書〉元服以前の童の髪は常に切事なし、長にあまるとも生しおく也、是お結ぶ時は、髪の元お取揃へ、頂上のほどへ上げて結之、其末お二つに分け、額の上に丸く輪に唐輪に結之也とあり、〈是古より男見の髪の風なること、前にいへるが如し〉さて女も便宜によりては、からわにゆひしも古代ありしとみえて、東鏡〈巻十七〉正治三年五月十四日の下、坂額女如童上髪雲々とあり、是唐輪なるべし、いとのちの物ながら、天文年中の書、奇異雑談、〈巻五〉唐には男女諸人髪おながからしめて、髪おつかねて髪の根に四五寸なる釵およこにさして、髪お釵にかけてくるくるとまきて、おしかふでおくなり、日本にいやしき女の筋曲といふごとくなりとあり、こヽに筋曲とはからわときこゆ、しかれば三百年前より、女もからわにゆふ事はあかしが、その了然は天正の間なる〈天文より四十年のち〉小松軍記〈群書類従本〉に、陣中へ軍士の妻食物お持ゆくさまおいふ所に、粕毛の髪お唐曲に結て雲々とあり、又松田一楽入道秀任寛文七年作、武者物語抄、〈寛文九年上木、全七冊巻の一、〉古き侍の物語に曰、井筒女之助と雲て、武遍世にすぐれたる渡り奉公人ありけり、かの人のかたち女人の出立にて、髪お長く生し、からわにゆひ、其唐輪の中に不断平針おさしこみておきたる也、是は人にから輪おとられまじき為なりとぞ、伝聞に井筒女之助は境若狭といひて、吉凡広家の家来なるが、浪人して摂州有馬郡の内三輪といふ所に久しく住たりときく、一生おちどなきかひ〴〵しき武士なり、はう〴〵渡りありき、後は雲州に下り、堀尾帯刀吉晴の家来となり、雲州にて病死なりときこえしとあり、又七の巻に、喧嘩口論お起し、わたくしの意趣に命お捨ること、せんなき事なり、むかし井筒女之助といふ侍あり、そのかたち女人の出立なり、髪お長くはやし、から輪にゆひ、著るいなども女人むきの小袖なり、不断刀脇差も幼少なる人の如く、鍔際にてこよりにてとめて、さしたるとなり、此心はだとへ人に頭おうたるヽとも、一生わたくしの意趣にては死ぬまじとの心もちなり、しかるゆえ常は男おやめて、つまる所は、主め御用に命お捨んとの心にて、女人のごとくに形おなし、女之助とも名つきたる也ときこえし、親は境備後といふて、吉川駿河守元春の家来なり、女之助若き名は境又平といひし人也、芸州沼唐輪髷之古図
此図は、岩佐又兵衛が筆なりとて、或人のもたる摸本なるお、こヽには全図お略しつ、本幅は、極彩色にて、いかさま岩佐が真跡と見ゆとぞ、此画入は、慶長元和お盛にへたる人なれば、唐輪の髪のさま証とすべし、此画人お俗には浄世又平と雲つたふ、田郡新庄といふ所より出生ときく、右の境備後より、今の境宗右衛門正次までは四代也ときこえしとあり、是に徴拠ば天文の聞に、かの筋曲といひしお、天正にいたりては唐輪ととなへて、中人以下の女は常にゆひしとみえたり、〈されども視義の時は下げ髪なる事次にいふべし、〉さて右の井筒女之助といふ名は、かぶき狂言などにて、女中たちも知れる名なれば、話柄にもとて、唐輪の考証のついでに、実伝おしるしつ、件の事どもおおもひわたして、つら〳〵考るに、かの髪上のさまおからえおおかしげにかきたるやうなると、紫式部がいひたるその形状は、こヽに出す古図の唐輪にやありけんかし、是は又も管見の強言にこそあれ、