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還魂紙料

懸髭
昔の男子は髭お好、その際の美しからんことお嗜がゆえに、常に毛抜おはなたず、既に客お招諸するとき、烟草盆に毛抜おそへて出しヽとぞ、是お書院毛抜と雲、〈書院毛抜の名.下に引し四季ばなし、西鶴置土産に見えたり、〉されば髭なき者は、墨にて髭お作りし遺風、近年まで町奴といふものにありて、よく人の知るところなり、又一種懸髭といふ物あり、是は紙にて髭の形お製、紙捻にて耳よりかけて編笠お打かぶり、遊里へ通ふ者なんどが、人目お忍ぶ便としたるものなりとおぼし、四季ばなし〈貞享年間印本〉一の巻に、日本堤にさしかヽれば、呼継番屋の行灯、星の連る光り、往来のしげきは、岸根の蘆の友摺さわぎ、中間の姿宿ありて、此所お忍び道具お万かしける或は長老の髭かけて、恋の奴となるもあり雲々と見え、又西鶴二代男〈貞享元年印本〉八の巻、土手の数番屋〈日本堤なり〉灯うつりて蛍売の里童子、沢の蓮葉かおり色こそ見えね、鞘とがめに水難も叩て逃る声、忍ぶ人の為とて、懸髭布頭巾売など雲雲とあれば、焼印編笠の類にて、泥町の茶屋或は船宿にて、貸もし、うりありきもしたるなるべし、作り髭は俳諸の発句におほく見えたれど、懸髭はいと希なり、
七百五十韻〈延宝九年印本〉
〈前句〉玉楼金殿耳せヽおみがきし 春澄
〈附句〉久堅の雲の掛髭時めきて 政定
耳せヽといふにかけ髭とつけたり