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三養雑記

人角
文化庚午の棄品会に人角いでたり、そは薩摩なる伊作地士、黒川某の額に(○○)、一角お生(○○○○)じたり、年八十七歳、元禄三年庚午夏五月十四日終としるしありしお、人みなめづらしきことにいひあへり、案ずるに人角は和漢ともに往々所見あり、そ、のためしなきにあらず、日本紀略、寛平九年七月廿三日、陸奥国言、安積郡所産小児額生一角、また新著聞集に、額に角二本(○○○○○)ありし子お産たることあり、又北窻瑣談に、寛政四年辛亥、備後国蘆田郡常村の農夫、八十余歳にて額に一角お生じ、翌年正月十七日解脱と見え、檐〓雑記に、梁武帝時、鐘離人顧思遠、年一百十二歳、蕭俣見其頭有肉角長寸許、〈見俣伝〉余亦曾見二人、一江蘭皐陽湖人、一徐姓嘉興人、頭上皆有肉角高寸許、年亦皆九十余、蓋寿相也、然二人皆貧苦無子、則亦非吉徴といへり、かヽれば人角は小児と老人とにあることヽ見えたり、再按に、日本書紀垂仁紀に、額有角人乗一船泊于越国笥飯浦、などあるは、正しく角ともさだめかねて、古人の説もあればその実はいかにぞや、