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閑田耕筆

寿夭の天命いかにともすべからねども、あるひは善により不善によりて、延促あるべきことも、またたがはぬことなるべし、袁了凡の陰隲錄にも、此旨おねもごろに示さる、こゝに一話有、畑鶴山一とせ津国郡山の近邑宿庄といふにあそびて、その豪農某にあひたるに、其面左方へゆがみて、又あるまじき象なりしに、其人もあやしく思はんと心得てや、吾面につきて物がたり有とて語りしは、おのれ十二三年の年父京へつれ行て、時に名ある相人郭塞翁に見せしめたり、其時は人なみ〳〵の面也き、塞翁見て此児の寿十九歳に限るべしといふ、父大に歎きて遁るべき法もあらんやととふ、翁しひておこなはゞなきにもあらじなれど、得行はじとこたふ、父たとひ家お傾るほどの金銭お参らすもいとはじ、唯此延寿の法お教へ給はれと乞しに、翁勃然として吾は金銭お貪るものとやおもふ、さるこゝろにては、いよ〳〵教ふとも行はじとて、ふたたびものいはず、父旅宿に帰りても、唯此ことおのみうれへて、さきの失言お謝し、再三翁に乞たれば、翁さらば教へん、他のことにあらず、きく所そこの家村中にいて他の嗜好なく、富ていとまあるまゝに、漁猟おもてあそびとす、是夭死の所以也、若以後かたく殺生お慎まば、あるひは寿限お延べし、此外に術なしといへり、是よりふつに殺生お止めしが、おのれ十七といふ年、父は身まかりぬ、我先立て女が死おみざることのうれしきとなん申き、さて十九になりたる年、一夜頭割がごとく痛みて苦しきこといふ計なし、時に彼塞翁が言お思ひ出て、今夜身まかるべしと決せしが、夜の明行に随ひ漸々に痛かろみて、朝になりて止みしかば、閨お出しに、家の内の者どもかほお見てあやしみ笑ふ、おどろきて鏡おとりて見ればかくのごとし、是死る代りなりと悟りて医療おくはへず、今五十三歳までながらへたりと語るに、さては今も堅く殺生おつゝしみ給ふらんといへば、其事に侍ふ、いつともなくゆるびて、此近き年比は、また折々漁猟するは、他に慰むことなければ也といふに、そはあしきことなり、さばかりの現益お見、父も亦いましめ給へるものおといさめて、旅舎へ帰りしが、あやしきことは其夜此男頓死せり、若し吾言おげにもと罪に伏したる所にて、天刑お示し給へるか、官の罪人お刑せしめ給ふも、罪に伏して行るゝ也などかたらる、彼塞翁が神相は予が相識も彼是試みて語れり、中には無病の人お見て、此月の中お過ず身まからんといひて当れるもありき、右の殺生によりて命短しと知ぬるも奇也、顔淵の短命いかにともすべからずといへども、先善お行ひ不善おとゞめて後こそ、実に修短の命には委ぬべけれ、