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陰徳太平記

武田攻八木城附武田出奔並に若狭武田之事
因幡の武田山城守が父は、信賢の庶流也けるが、聊恨る事有て若州お出奔し、山名但馬守お頼立越ければ、山名客人と号し、山口が向座お宥して、賞玩せられたりけれ共、後には自然と家の子の如に成て、左座は山口、右座は武田とぞ被定ける、彼信賢は武事の誉れのみに非、和歌に達し能書にても有ければ、其名雲上に聞えて、折節は和歌の御会にも被召出、又古今集お始、撰集共書て可奉宣旨度々有けるとかや、年齢も百三十二(○○○○)まで長生せられしとぞ、