[p.0716]
倭訓栞
前編九/古
こひ 恋は人情の切実おいへば、乞求るの儀なるべし、恋々てとも見ゆ、和歌に恋部お立て四季に次つるは、有天地然後有男女の義、我邦天の浄橋のむかしより、諾冊唱和の詞に起りて、造端於夫婦の教お設けり、此恋の情実お失はゞ、忠孝も本づく所なく、礼儀も錯く所あらじ、俊成卿、
恋せずば人はこゝうもなからまし物のあはれは是よりそしる、此歌古今集流れては妹背の山の歌によりてよめりと、豊筑後守の伝なり、万葉集には恋の部お相聞と載て、妹背のなからひのみならず、兄弟朋友のみやびおかはすまでお入られたれば、五倫にわたりてこゝろ得べきことにや、小倉百首に、
わすらるゝ身おばおもはず誓ひてし人のいのちのおしくも有かな、此道理お忠孝に移し看ば、臣子の身として、君父の不是底おかへり見るに、いとまなき意旨お理会し得べし、拾遺集人丸、 住よしの岸にむかへるあはぢ島あはれと君おいはぬ日ぞなき、恋部に入たれど、いさゝかも妹背のなかの心はなし、君は天皇おまうし奉りて、至忠の詠なりといへり、されど男女の間淫風に奔り、猥に流れ行て帰る道しらざるは、大に戒むべし、