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伊勢平蔵家訓
苦楽の事
一楽といふはたのしみなり、およそ天地の間に生れ出るものゝ中、鳥獣虫けらもある中に、人に生るゝ事たのしみなり、女もある中に、男に生るゝ事たのしみなり、かたは者うつけ者もある中に、常の人に生るゝ事たのしみなり、若死する人もある中に、長生する事楽しみなり、きのふ死たる人もあるに、けふ迄生ながらへたるは楽しみなり、病身なる人もあるに、無病なるは楽しみなり、乱世に生れたる人もあるに、太平の御代に生れあひたるはたのしみなり、乞食もある中に、貧乏ながらも相応に渡世するは楽しみなり、賤しき人もある中に、小禄なりとも賜はりて、人の上にたつはたのしみなり、此外たのしき事はいか程あるべし、然れども人は欲心深き物なるゆへ、我勝手によき事はたのしみとおもはず、たまたま勝手にわろき事あれば、くるしみなげくなり平目のまのあたりたのしむべき事あるおば、たのしまずして、別にたのしみおもとむるは、おろかなる事なり、くるしむもたのしむも、我心の持やうにあるなり、外より来る事はあらず、