[p.0758]
日本書紀
二十八
山城介三善春家恐蛇語第三十二今昔、山城の介にて三善の春家と雲ふ者有き、前の世の蝦蟇にてや有けむ、蛇なむ極く恐ける、世に有る人許誰も皆蛇お見て不恐ぬ人無けれども、此の春家は蛇お見ては物狂はしくなむ見えける、近くは夏比、染殿の辰巳の角の山の木隠れに、殿上人君達二三人許行て、冷んて物語などしける所に、此の春家も有けり、其れは人の当りしこそ有れ、此の春家が居たりける傍よりしも、三尺許なる烏蛇の這出たりければ、春家は否不見ざりけるに、君達の其れ見よ、春家と雲ければ、春家打見遣たるに、袖の傍より去たる事一尺許に三尺許の烏蛇の這行くお見付て、春家顔の色は朽し藍の様に成て、奇異く難堪気なる音お出して、一音叫て否立も不敢ずに立むと為る程に二度倒れぬ、辛くして起て沓おも不履ずにて走り去て、染殿の東の門より走り出て、北様に走て、一条より西へ、西の洞院まで走て、其より南へ西洞院下に走り、家は土御門西の洞院に有ければ、家に走て入たりけるお、家の妻子共、此は何なる事の有つるぞと問へども、露物毛不雲ず装束おも不解ず、著作ら低に臥にけり、人寄て問へども答ふる事無し、装束おば人寄て丸はし解きく、物も不思えぬ様にて臥たれば、湯お口に入るれども歯おひしと咋合せて不人れず、身お捜れば火の様に温たり、〈○中略〉然れば春家が蛇に恐る事、世の人の蛇に恐る様には違たりかし、蛇は忽に人お不害ねども、急と見付くれば気六借く疎ましき事は、彼れがなれば誰も然は思ゆるぞかし、然れども春家は糸物狂はしくぞ有けるとなむ語り伝へたるとや、