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沙石集
四上
無言上人事
人ごとに我好む事には、失お忘れて愛し、我うけぬことには、失お求てそしる、然れば我好まん事には失有て、人のそしらん事おかへりみて、かたく執すべからず、わがうけぬ事には、得の有ことおかんがへて、あながちにそしるべからず、是達人の意もちなるべし、〈○中略〉或入道囲碁おこのみて、冬の夜よもすがら打あかす、中風の気有て、手ひゆる故に、かはらけにて、石おいりて打、油つくれば萩おたきて打に、灰身にかヽれば、笠うちきて打あかす由、近程にて聞侍き、坐禅修行なんど、これほどにせん人、悟道かたからじ、又有下手法師、酒おあひする有き、直もなきまヽに、一衣のかた袖おときてかひて飲けり、是ほどに、三寳おも供養し、父母にも孝養し、悲田にも施し、惜む心なくば、感応むなしからじ、物のなきと雲て、善事お行せぬは、物のなきにはあらず、たヾ志のなきなり、或入道餅お好む、医師なるゆへに、請じて主じ餅おせさするに、かの音お聞て、始は小音におうおうと雲ほどに、次第に高くおう〳〵と鞠なんど乞様におめきて、はては畳のへりにつかみつきて、入道がきかぬ所にてこそし候べけれ、かのつく音お聞候へば、たえがたく候とて、もだへこがれけり、此事はかの主の物語なり、仏法お愛し、仏の音声に歓喜の心力ヽらん人、得果疑なからん、これほどの事はまれなれども、人ごとにあひする事有、せめて物愛しせぬものは、或は昼寝お愛し、或は徒なるおあひす、南都の或る寺の僧、朝の粥おくはずして、日高まで眠る、いかに粥はめさぬと人間へば、かゆよりも寝たるは、はるかに味よき也卜答けり、これほどに法喜禅悦の食おあひせば、仏道遠からじ、かくのごとく、或は詩歌管絃にすき、或は博弈田猟おこのみ、色欲にふけり、酒宴おあひする人、是によりて財宝の費、身命のほろび、病のおこり、禍のきたらんことおわする、世間のことこのむ所、ことなるがごとし、