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世事百談
方言
漢の楊子雲、輶軒絶代語の撰あり、世に楊子方言といへり、わが邦にて近来越谷吾山といふ俳人の物類称呼おあらはしたり、ある人大和の国の方言おすべいへる諺とて、
てい〳〵ござれ、さうはつちや、かたつか、けんずい、えそまつり、おもふに、てい〳〵ござれは、歩行の義、あるきてござれと雲ふに同じ、さうはつちやは、左様と雲ふ詞にて、はつちやは助語のはたらきなり、かたつかは、つまらぬといふ俚語に同じ意ばへにて、かたつかもないなどゝもいへり、けんずいは、間炊なるべし、中食のことなり、籠耳に、昼食くふこと、人によりてその名目たがひあり、侍は中食といひ、町人は昼食といひ、寺がたに点心といひ、道中はたご屋にてひる息といひ、農人は勤随といひ、御所方にて女中のことばには御供御といふとあり、又風俗文選の岷村が南都賦に、なら茶おやちうと名づけ、昼食お硯水といふともいへり、しかれども勤随、また硯水、ともに字音の仮借なるべし、えそまつりは、えそは魚の名なり、大和は海なき国にて、神事祭礼ありとも、えそなどの海魚の得がたきおもて、肴に酒宴することはなみのことにてなしといふこゝろにて、珍肴おそなへたるふるまひなどのあるときの言なり、出羽の方言おいふ諺に、
あいべちや、こいちや、ござもせちや、
あいべは行けといふこと、こいは来れといふこと、ござもせはござれといふ方言なり、ちやは助語にて、かの国にてつねにいふことゝぞ、盛岡あたりの方言おいふ諺に、
びる、どんぼ、がに、げいる、
蛭、蜻蛉、蟹、蟇なり、陸奥の俗は濁音多ければなり、また筑紫がたにては詞の末にばつてんといふ助語お、そへていふことあり、聞きなれぬものは、耳にかゝりておかしきやうに思へど、今常にさういうたればとて、しかじかなりといふこと、誰もいふことにて、ばとてといふ詞の国のなまりにて、ばつてんとなるなり、すべて国によりて品物の名の異なるは、さもあるべきことなれど詞の転訛は大かた音便よりくづれて、終には詞のもとのわからぬこと多かり、