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百家琦行伝

有難与一兵衛
天明完政のころ、備前の国邑久郡富岡村に、油屋与一兵衛といふ者ありけり、氏は小山、名は寿信、農家にして大いに富り、岡山の士松島省内といへる人の弟子になりて、心学お専ら尊み、月毎五六度づゝ席お設て、松島大人お請待し、近村の人々お勧めて、道話お聞しめ、善道に導く事おこたらず、〈○中略〉這与一兵衛にひとつの癖あり、常に〈はつあ〉ありがたいと雲事、日に幾百度とかぞふ、朝とく起いで母の顔お看て、〈はつあ〉有がたいといひ、亦妻の顔お看て〈はつあ〉有難いと雲、また兄弟の顔お見て、〈はつあ〉有がたいといふ、何ゆえ然様にありがたいと雲るゝやと問ば、当日も且(まづ)母兄弟妻ともに恙なき顔お見る、〈はつあ〉有難い事ではないかと答ふ、門口に人来りて案内おこふ、与一兵衛聞つけ、〈はつあ〉有難いと雲て立出ける、人の案内したるは善事にて来りしや、また凶き事にや、いまだ其幹事(ようじ)わかたざるに、何故有がたいと雲るゝぞと問ば、来し人の幹(よう)の善悪はしらずといへども、我いちはやく聞つけて答るほどに、耳も敏く躬も達者なれば、〈はつあ〉有難い事にはあらずやといふ、斯て来りし人さま〴〵の物語して在ける間も、おり〳〵〈はつあ〉有難いといふ事数おしらず、其人別れて帰るときも、檐端までおくり出て、〈はつあ〉有難いといふ、亦途中にて人に遭しときも、〈はつあ〉有難いと雲て腰おかゞむる、何故にありがたきぞと問ば、爾も我も恙なくて、這様に対面いたすこと、寔にありがたき事ならずやといふ、一日外より帰り来るとき、急雨にあひて〓(はし)り、我家の前にて転まろび、膝おすり破り血の流るゝお看て、〈はつあ〉有がたいといふ、下僕是お助おこし、斯やうに疵お蒙り給ひ、何ぞあり難き事のあらんと細語ければ、われ転て蹇となりたればとて、我粗忽せん方なきお、斯いさゝかの疵にて事済し、〈はつあ〉有がたき事ならずやといふ、亦一時近辺の馬一匹ものに狂ひて走り来る、与一兵衛是おしらず行当りて踏倒され、這這おき上りて、〈はつあ〉有難いといふ、何がありがたきぞと問ば、馬に踏殺されても詮方なし、かやうに恙なきは、〈はつあ〉有難き事なりといふ、何によらず、〈はつあ〉ありがたいと雲事、口癖にて止時なし、援おもつて世人倬号して有難与一兵衛と、近郷隠れなく、太甚名高きものとなれり、〈○下略〉