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沙石集
三上
癲狂人之利口事
或里に癲狂の病有る男ありけり、此病は火の辺、水の辺、人の多かる中にして発る、心うき病也、俗は、くつちと雲へり、或時大河の岸にして、例の病おこりて、河へおち入ぬ、水の上にうかびて、はるかに流行て、河中の州さきに、おしあげられぬ、とばかり有てよみがへりて、こはいかにして、かヽる所にあるにやと、思めぐらす程に、例の病によりて、河へ落入にけり、あぶなかりける命かなと、浅猿覚えて、独言に、死たればこそ生たれ、生たらば死になまし、かしこくして死してんげる、けうに死ぬらふにとぞいひける、まことに大河の流疾く、底深ければ、息絶ずば沈みて死なまし、息絶ぬれば、うかぶ事にてこそ、角助ぬる事お雲けるにこそ、忌き利口なり、〈○中略〉
忠言有感事
故吉水の慈鎮和尚の御房に房官有けり、又御室の御所に房官有けり、其に名人也けるが、二人ながら猿にすこしもたがはず、世人猿房官とて、人々に愛しわらわれける、共にさか〳〵しき者にて、召つかはれけり、或時御室より件の房官、吉水の御所御使に参る、件の猿房官参ぜりとて、御所中さヾめきけり、これの猿房官いだし合て、あひしらはせよとて、御所にも御覧じけり、御所中の上下、かしこ援にたヽずみて見る程に、吉水の房官あゆみむかひて、うちえみて、いかヾおぼゆると問に、鏡お見る心地こそすれと答へければ、人々興に入て愛し感じけり、時にとりてゆヽしく聞へけり、