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法然上人行状画図
四十五
俊乗房重源は上の醍醐の禅徒にて、真言の薫修ふかゝりけるが、〈○中略〉治承の逆乱に、南都東大寺焼失のあひだ、このひじりおもちて、大勧進の職に補せらる、すでに造営おくはだつるころ、工の器用おえらばんために、ある番匠おめして、屋おつくらんとおもふに、たるきの下に木舞おうたん事、いかゞあるべきととひ給に、番匠さる屋づくり、いまだ見及候はずと申けるお、おもふやうあり、たゞつくれといはれければ、あるまじき事しいでゝ、傍輩にわらはれんこと、いとよしなきわざに侍りと申す、あまたの番匠みなさやうにのみ申ける中に、一人領掌するあり、かゝる屋、日ごろもつくりたる事侍りやととひ給に、さる事は侍らねども、なにともおしへ給はんまゝにこそ、つくり心み侍らめと申ければ、その時、まことにそのまゝにつくらんとにはあらず、たゞ心のほどおしらんためにいひつるなりとて、すなはちかれお大工として、東大寺おば、つくりたてられけるとなん、おほかたよろづにはかりごとかしこき人なりければ、そのころのことわざにて、支度第一俊乗房(○○○○○○○)とそ人申ける、