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甲陽軍鑑
十一/品第三十五
一永禄十二年巳の七月中は、信玄公御内談あり、〈○中略〉其時馬場美濃守より、早川弥三左衛門と雲者お使として、内藤修理殿へ、なぞおかけらるゝ、いとげの具足、敵おきる、なに、内藤則とかるゝ、小太刀、馬場聞て、本手よりは、ましなりとほめらるゝ、是は馬場美濃も、内藤修理も、日来なぞずきにて如此、使の早川弥三左衛門ゆきもとりともに、鉄炮手二け所負申候、〈○中略〉十月八日〈○永禄十二年〉には、信玄公〈○中略〉一戦おいそぎ度思召候へども、山県おはじめ、ゆうぐんの八備お、にろねより、志田沢の道へおりて、おしかへり、ちやうしやの首尾あふ事、おそき子細は、八かしらの人数、五千あまりなるおもつて、かくのごとし、然れどもよき時分におしつけ、山県三郎兵衛備さきのみゆる時に、小荷駄奉行内藤修理方より、寺尾豊後お使にして、馬場美濃守かたへ、なぞかくる、待よひに更行かねのこえきけば、あかぬ別の鳥は物かは、馬場美濃守則ちとく、車牛、はなれ牛、遣もどるなり、〈○下略〉