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沙石集
七上
眠正信房事
和州菩提山の本願僧正御房に、忠完正信房と雲僧有けり、あまりにねぶりければ、ねぶりの正信とぞ申ける、御舎利講の法用散華すべかりけるが、唄ひくほどに、例のねぶりけるお、唄おわりてそばなる僧、おどろかしければ、ねぶるものから、又物匆なる僧にて、錫杖お取て手執錫杖と誦しけるお、いかにやといはれて、やら唄かと思てとぞ雲ける、又或る夜、九番鳥の鳴けるお眠耳に、御所に忠完々々と召ずと聞なして、事々しく御いらへ申て御前へ参る、いかになに事ぞと被仰れば、召の候つると申す、さる事なしと仰ありければ、鳥の猶空に声のするお指さして、あれに召の候つるとぞ申ける、或る時、御湯の後、汗にぬれたる御小袖お、ふせごにうちかけて例の物匆はぬれたる方お上にして、さかりなる火にあぶりて、ねぶりいたるほどに、とくまいらせよと仰の有けるに、おどろきて見れば、白御小袖籠のかたつきて、香色にこがしてけり、あさましと思て、かひまきてぬれたる方お、上にしてもちて参ぬ、未だぬれたるはいかにと仰らるれば、たヾたてまつり候へ、したはこがれて候とぞ申ける、尾籠也と仰られて、御小袖は給はりてけり、