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太平記

吉野城軍事
村上彦四郎義光、鎧に立処の矢十六筋、枯野に残る多草の、風に臥たる如くに折懸て、宮〈○大塔宮護良親王〉の御前に参て申けるは、大手の一の木戸、雲甲斐なく責破られつる間、にの木戸に支て、数刻相戦ひ候つる処に、御所中の御酒宴の声、冷く聞へ候つるに付て参て候、敵既にかさに取上て、御方の気の疲れ候ぬれば、此城〈○吉野〉にて功お立ん事、今は協はじと覚へ候、未敵の勢お、余所へ回し候はぬ前に、一方より打破て、一先落て可有御覧と存候、〈○中略〉恐ある事にて候へ共、めされて候錦の御鎧直垂と、御物具とお下し給て、御諱の字お犯して、敵お欺き、御命に代り進せ候はんと申ければ、宮争でかさる事あるべき、死なば一所にてこそ、兎も角もならめと仰られけるお、義光言ばお荒らかにして、〈○中略〉はや其の御物具お脱せ給ひ候へと申て、御鎧の上帯おとき奉れば、宮げにもとや思食けん、御物具鎧直垂まで、脱替させ給ひて、〈○中略〉勝手の明神の御前お、南へ向て落させ給へば、義光は二の木戸の高櫓に上り、遥に見送り奉て、宮の御後影の、幽に隔らせ給ぬるお見な、今ばかうと思ひければ、櫓のさまの板お切落して、身おあらはにして、大音声お揚て名乗けるは、天照太神御子孫、神武天皇より九十五代の帝、後醍醐天皇第二皇子、一品兵部卿親王尊仁逆臣の為に亡され、恨お泉下に報ぜそ為に、隻今自害する有様見置て、女等が武運忽に尽て、腹おきらんずる時の手本にせよと雲儘に、〈○中略〉太刀お口にくわへて、うつ伏に成てぞ臥たづける、大手搦手の寄手、是お見て、すはや、大塔宮の御自害あるは、我先に御首お給らんとて、四方の囲お解て、一所に集る、其間に宮は引違へて、天の河へぞ落させ給ける、南より廻りける士口野の執行が勢五百余騎冪、多年の案内者なれば、道お要(よこぎ)り、かさに廻りて、打留め奉んと取籠る、村上彦四郎義光が子息、兵衛蔵人義隆は、〈○中略〉宮の御供にぞ候ける、落行道の軍、事既に急にして、討死せずば、宮落得させ給はじと覚ければ、義隆隻一人踏留りた、追てかヽる敵の馬の諸膝剃では切りすへ、平頸切ては巍落させ、九折なる細道に、五百余騎の敵お相受て、半時計ぞ支たる、義隆節石の如く也といへ共、其身金鉄ならざれば、敵の取巻て射ける矢に、義隆既に十余箇所の疵お被てけり、死ぬるまでも猶敵の手にかヽらじとや思けん、小竹の一村有ける中へ走入て、腹掻切て死にけり、村上父子が敵お防ぎ、討死しける其間に、宮は虎口に死お御 遁有て、高野山へぞ落させ給ける、