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太平記

先帝船上臨幸事
忠顕朝臣能々其子細お尋聞て、軈た勅使お立て被仰けるは、主上〈○後醍醐〉隠岐判官が館お御逃有て、今此湊に御坐あり、長年が武勇兼て上聞に達せし間、御憑あるべき由お被仰出也、憑まれ進せ候べしや否、速に勅答可・申とぞ被仰たりける、名和又太郎は、折節一族共呼集て、酒飲て居たりけるが、此由お聞て、案じ煩たる気色にて、兎も角も申得ざはけるお、舎弟小太郎左衛門尉長重、進出て申けるは、古より今に至迄、人の望所は、名と利との二也、我等忝も十善の君に被憑進て、尸お軍門に曝す共、名お後代に残ん事、生前の思出、死後の名挙たるべし、唯一筋に思定させ給ふより、外の儀有べしとも、存候はずと申ければ、又太郎お始として、当座に候ける一族共廿余人、皆此の儀に同じてけり、〈○中略〉俄の事にて御輿なんども無りければ、長重著たる鎧の上に荒薦お巻て、主上お負進せ、鳥の飛が如くして船上へ入奉る、長年近辺の在家に人お廻し、思立事有て、船上に兵粮お上る事あり、我倉の内にある所の米穀お、一荷持ら運びたらん者には、銭お五百づヽ取らすべしと、触たりける間、十方より人夫五六千人出来して、我劣らじと持送る、一月が中に兵粮五千余石運びけり、其後家中の財宝悉人民百姓に与て、己が館に火おかけ、其勢百五十騎にて舟上に馳参り、皇居お警固仕る、〈○下略〉