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太平記

新田義貞謀叛事附天狗催越後勢事
新田太郎義貞去三月十一日、先朝〈○後醍醐〉より綸旨お給たりしかば、千剣破より虚病して本国へ帰り、便宜の一族達お潜に集て、謀叛の計略おぞ被回ける、〈○中略〉相模入道〈○北条高時、中略、〉大に忿て宣けるは、〈○中略〉武蔵上野両国の勢に仰て、新田太郎義貞舎弟脇屋次郎義助お討て、可進すとぞ被下知ける、義貞是お聞て、宗徒の一族達お集て、此事可有如何と評定有けるに、異儀区々にして不一定、〈○中〉〈略〉舎弟脇屋次郎義助、暫思案して進出て被申けるは、弓矢の道死お軽じて、名お重ずるお以て義とせり、〈○中略〉とても討死おせんずる命お、謀叛人と謂れて、朝家の為に捨たらんは、無らん跡までも、勇は子孫の面お令悦、名は路径の尸お可清む、先立て綸旨お被下ぬるは、何の用にか可当、各宣旨お額に当て運命お天に任て、隻一騎也共国中へ打出て、義兵お挙たらんに、勢付なば軈て鎌倉お可責落、勢不付ば、隻鎌倉お枕にして、討死するより外の事やあるべきと、義お先とし勇お宗として宣しかば、当座の一族三十余人、皆此義にぞ同じける、さらば軈て事の漏れ聞へぬ前に打立とて、同〈○元弘三年〉五月八日の卯刻に、生品明神の御前にて旗お挙、綸旨お披て三度是お拝し、笠懸野へ打出らる、