[p.1016][p.1017]
太平記
十一
筑紫合戦事
主上〈○後醒醐〉未だ舟上に御座有し時、小弐入道妙慧、大伴入道具簡、菊池入道寂阿〈○武時〉三人同心して、御方に可参由お申入ける間則綸旨に錦の御旗お副てぞ被下ける、其企彼等三人が心中に秘しえ未だ色に雖不出、さすがに隠れ無りければ、此事頓て探題英時〈○北条〉が方へ聞へければ、英時彼等が野心の実否お能々伺ひ見そ為に、先菊池入道寂阿お博多へぞ呼ける、菊池、〈○中略〉此方より遮て博多へ寄て、覿面に勝負お決せんと思ければ、兼ての約諾に任て、小弐大伴が方へ触遣しける処に、大伴天下の落居未だ如何なるべしとも見定めざりければ、分明の返事に不及、小弐は又其比京都の合戦に、六波羅毎度勝に乗由聞へけれが、己が咎お補はんとや思けそ、日来の約お変じて、菊池が使八幡弥四郎宗安お討て、其頸お探題の方へぞ擢したりける、菊池入道大に怒て、日本一の不当人共お憑て、此一大事お思立けるこそ越度なれ、よし〳〵其人々の与せぬ軍は、せられぬかとて、元弘三年三月十三日の卯刻に、僅に百五十騎にて探題の館へぞ押寄ける、〈○中略〉探題は兼てより用意したる事なれば、大勢お城の木戸より外へ出して、戦はしむるに、菊池小勢なりといへども、皆命お塵芥に比し、義お金石に類して責戦ければ、防ぐ兵若干被打て攻(つめ)の城へ引籠る、菊池勝に乗て屏お越、関お切破て透間もなく責入ける間、英時こらへかねて、既に自害おせんとしける処に、小弐大友六千余騎にて後攻おぞしたりける、菊池入道是お見て、嫡子の肥後守武重お喚て雲けるは、我今小弐大伴に被出抜て、戦場の死に赴くといへ共、義の当る所お思ふ故 に、命お堕ん事お不婚、然れば寂阿に於ては、英時が城お枕にして可討死菠は急ぎ我館へ帰て、城お堅し兵お起して、我が生前の恨お死後に報ぜよと雲含め、若党五十余騎お引分て、武重に相副、肥後の国へぞ返しける、〈○中略〉其後菊池入道は、二男肥後三郎と相共に、百余騎お前後に立て、後攻の勢には目お不懸して、探題の屋形へ責入、終に一足も引ず、敵に指違々々、一人も不藤打死す、〈○下略〉