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梅松論

結城太田大夫判官親光が振廻、誠に忠臣の儀おあらはしければ、みる人は申に不及、聞伝ける族までも、讃ぬ者こそなかりけれ、十日〈○建武三年正月〉の夜、山門へ臨幸の時、追付奉て、馬より下り、冑おぬぎ、御輿の前に畏申けるは、今度官軍、鎌倉近く責下て、泰平お致すべき所に、さもあらずして、天下如此成行事は、併大友左近将〓が、佐野において、心替りせし故也、迚も一度は君の御為に、命お奉るべし、御暇お給て、偽て、降参して、大友と打違て、死お以て忠お致すべしとて、思ひ切て、賀茂より打帰りけれども、竜顔お拝し奉らん事も、今お限りと存ければ、不覚の涙、鎧の袖おぞぬらしける、君も遥に御覧じ送て、頼母敷も哀れにも思召されければ、御衣の御袖おしぼり給ひける、さる程に東寺の南大門に、大友が手勢二百余騎にて、打出たり、親光が一族、益戸下野守家人一両輩召具て、残る勢おば九条辺にとゞめ置て、大友に付て、降参のよしお偽て雲ければ、〈○中略〉大友御対面の後、可進のよし雲て、太刀おうけとらんとする所に、さはなくて、馳並て抜打に切、〈○中略〉親光が忠節お尽しける最後の振舞、昔も今も難有ぞ覚し、〈○下略〉