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太平記
十六
正成兄弟討死事
楠判官正成、舎弟帯刀正季に向て申けるは、敵前後お遮て、御方は陣お隔たり、今は遁ぬ処と覚るぞ、いざや先前なる敵お一散し追捲て、後ろなる敵に戦はんと申ければ、正季可然覚候と同じて、七百余騎お前後に立て、大勢の中へ懸入ける、〈○中略〉正成と正季と、七度合て七度分る、其心偏に左馬頭〈○足利直義〉に近付、組て討んと思にあり、途に左馬頭の五十万騎、楠が七百余騎に懸靡けられて、又須磨の上野の方へぞ引返しける、〈○中略〉直義は馬お乗替て、遥々落延給けり、左馬頭楠に追立られて、引退お将軍〈○足利尊氏〉見給て、惡(あら)手お入替て、直義討すなと被下知ければ〈○中略〉三時が間に、十六度迄闘ひけるに、其勢次第々々に滅びて、後は才に七十三騎にぞ成にける、此勢にても打破た落ば、落つべかりけるお、楠京お出しより、世の中の事、今は是迄と思所存有ければ、一足も引ず戦て、機已に疲れければ湊河の北に当て、在家の一村有ける中へ走入て、〈○中略〉楠が一族十三人、手の者六十余人、六間の客殿に、二行に双居て、念仏十返計同音に唱て、一度に腹おぞ切たりける、正成座上に居つヽ、舎弟の正季に向て、抑最期の一念に依て、善惡の生お引といへり、九界の間に、何か御辺の願なると問ければ、正季から〳〵と打笑て、七生まで隻同じ人間に生れて、朝敵お滅さばやとこそ存候へと申ければ、正成よに嬉しげなる気色にて、罪業深き悪念なれ共、我も加様に思ふ也、いざヽらば同く生お替て、此本懐お達せんと契て、兄弟共に差違て、同枕に臥にけり、〈○下略〉