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太平記
二十六
正行参吉野事
京勢如雲霞、淀八幡に著ぬと聞へしかば、楠帯刀正行舎弟正時一族打連て、十二月〈○正平三年〉廿七日芳野の皇居に参じ、四条中納言隆資お以て申けるは、〈○中略〉正行正時已抵年に及候ぬ、此度我と手お砕き、合戦仕候はずば、且は亡父の申しヽ遣言に違ひ、且は武略の無雲甲斐謗りに可落覚候、有待の身、思ふに任せぬ習にて、病に犯され、早世仕事候なば、隻君の御為には不忠の身と成、父の為には不孝の子と可成にて候間、今度師直師泰に懸合、身命お尽し合戦仕て、彼等が頭お正行が手に懸て取候歟、正行正時が首お彼等に被取候か、其につの中に戦の雌雄お可れ決にて候へば、今生にて、今一度君の竜顔お奉拝為に、参内仕て候と申しも敢ず、涙お鎧の袖にかけて、義心其気色に顕れけれべ伝奏未奏せざる先に、まづ直衣の袖おぞすらされける、主上〈○後村上〉則南殿の御簾お高く捲せて、玉顔殊に麗く、〈○中略〉朕以女股肱とす、慎て命お可全と被仰出ければ、正行頭お地に著て、兎角の勅答に不及、隻是お最期の参内也と思定て退出す、正行、正時、和岡新発意、舎弟新兵衛、同紀六左衛門子息二人、野田四郎子息、二人、満将監、西河子息関地良円以下、今度の軍に一足も不引、一遠にて討死せんと、約束したりける兵、百四十三人、先皇の御廟に参ら、今度の軍難義ならば、討死仕べき暇お申て、如意輪堂の壁板に、各名字お遏去帳に書連て、其奥に、
返らじと兼て思へば梓弓なき数にいる名おぞとヾむる、と一首の歌お書留め、逆修の為と覚敷て、各鬢髪お切て仏殿に投入、其日士口野、お打出て、敵陣へとぞ向ける、