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源平盛衰記

有王渡硫黄島事
法勝寺執行俊完は、此人々に捨られつヽ、島の栖守と成はてヽ、事聞人もなかりけるに、僧都の当初世に有し時、幼少より召仕ける童の三人、粟田口辺に有けるが、兄は法師に成て、法勝寺の一の預也、二郎は亀王、三郎は有王とて、二人は大童子也、〈○中略〉唐船の纜は四月五日に解習にて、有王は夏衣たつお遅しと待兼て、卯月の末に、便船お得、海人が浮木に倒つヽ、波の上に浮時は、波風心に任せねば、心細事多かりけり、歩お陸地にはこびて、山川お凌ぐ折は、身疲足泥(なづむで)、絶入事も度々也、去共主お志にて行程に、日数毛漸積ければ、鬼界島にも渡にけり、〈○中略〉執行も三年の思に衰痩、あらぬ形に成たれば、知ざりけるも理也、我こそ俊完よと名乗けるより、有王は流す涙せきあへず、僧都の前に倒伏、良久物も雲ず、さても老たる母おみすて、親者にも知れずして、都お出て遥の海路お漕下、危浪間お分凌ぎ参しには、縦疲損じ給たり共、斜なる御事にこそと存ぜしに、三年お過し程は、さすが幾ならぬ日数にこそ侍るに見忘るヽ程に、窄(やつれ)させ給ける口惜さよ、日比都にて思やり進けるは、事の数にても侍らざりけり、まのあたり見進らする御有様、うつヽ共覚候はず、されば何なる罪の報にて、角渡らせ給覧とて、僧都の顔おつく〴〵と守つヽ、雨(さめ)々とぞ泣臥たる、〈○下略〉