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源平盛衰記
十一
有王俊完問答事
僧都又宣けるは、俊完は懸罪深者なれば、業にせめられて今幾ほどか存ぜんずらん、己さへ此島にて数事も不便也、疾々帰上れと雲れければ、有王尋参侍る程にては、十年五年と申とも、其期お見終進せ侍るべし、努々御痛有べからず、但御有様久かるべし共不覚、最後お見終奉らん程は、是にして兎も角も労進すべしとて、僧都に被教、峯に登ては硫黄お堀て商人に売り、浦に出ては魚お乞て執行お養ふ、係けれども、日来の疲も等閑ならず、月日の重るに随て、いとヾ憑なく見えけるが、当年〈○治承三年〉の正月十日比より打臥給ひぬ、〈○中略〉日数おふる程に、次第に弱て雲事も聞えず、息止眼閉にけり、寂々たる臥戸に、涙泉に咽べども、巴峡秋深ければ、嶺猿のみ叫けり、閑々たる渓谷に、思歎に沈ども、青嵐峯にそよいで皓月のみぞ冷しき、白雲山お帯て人煙お隔たれば、訪来人もなし、蒼苔露深して洞門に滋れども、憐思者もなし、童隻一人営つヽ、燃藻の煙たぐへてけり、茶毘事終てければ、骨お拾て頸に掛涙に咽て遥々と都へ蹄上にけり、〈○下略〉