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源平盛衰記
二十七
信濃横田川原軍事
西七郎と富部三郎と寄合せて、引組んでどうど落て、上になり下になり、弓手へころび妻手へころびて、逓に勝負ぞなかりけり、富部三郎は、笠原が八十五騎の勢に具して、軍に疲たりければ、終には西七郎に被討けり、援に富部が郎等に、杵淵小源太重光と雲者あり、此間主に被勘当て、召具する事も無れば、城太郎の催促に、主は越後へ越けれ共、杵淵は信濃にあり、去ば今の十三騎にも不具けるが、主の富部城四郎の手に成て、軍ん給ふと聞き、徐(よそ)にても主の有様見奉り、又よき敵取て、勘当許れんと思て、辺に廻て、待見けれども、主の旗の見えざりければ、余りの覚束なさに、陣お打廻て知たる者に尋ければ、西七郎と戦ひ給つるが、旗差は討殺されぬ、富部殿も討れ給ぬとこそ聞つれ、冑も馬もしるし有らん、軍場お見給へと雲、杵淵小源太穴心うやとて、馳廻て見ければ、馬は放れて主もなし、頸は取れて敵の鞍の取付にあり、杵淵是お見て歩せ寄せ、あれに御座は、上野の西七郎殿と見奉は僻事か、是は富部殿の郎等に、杵淵小源太重光と申者にて候、軍以前に大事の御使に罷たりつるが、遅く帰参候て、御返事お申なぬに、御頸に向奉た、最後の御返事申さんとて進ければ、荒手の奴に協じと思て、鞭お打てぞ逃行ける、まさなし七郎殿、目に懸たる主の敵遁すまじきぞ、七郎殿とて追て行、七郎は我身も馬も弱りたり、杵淵は馬も我身も疲れねば、二段計先立て逃けれども、六七段にて馳詰た、引組でどつと落つ、重光大かの剛の者也、西七郎お取て押て、首お掻、杵淵主の首お敵の鞍の取付より切落し、七郎が頸に並居えて、泣々雲けるは、身に誤なしといへ共、人の讒言によりて、御勘当聞も直させ給はず、又始て人に仕て、今参と雲はれん事も口惜て、さてこそ過候そるに、今度軍と承れば、よき敵取て見参に入、御不審おも晴さんとこん存つるに、遅参仕て先立奉りぬる事、心うく覚ゆ、さりとも此様お御覧ぜば、いかばかりかは悦給はんと、後悔すれ共、今は力なし、作去敵の首は取りぬ、冥途安く思召せ、軍場に披露申べき事あり、やがて御伴と雲て馬に乗り、二の首お左の手に差上、右の手に太刀お抜持て、高声に、敵も御方も是お見よ、西七郎の手に懸けて、主の富部殿討れ給ぬ、郎等に杵淵小源太重光、主の敵おば角こそとれやとぞ哼たる、西七郎が家の子郎等轡お返して、三十七騎おめきて蒐、重光存ずる処ぞ、和殿原とて、隻一騎にて敵の中へ馳入て、人おば嫌はず、直切にこそ切廻れ、敵十余騎切落し、我身も数多手負ければ、今は不協と思た、主の共に剛者自害するお見給へとて、七郎が頸おば抛て、なお富部三郎が頸お抱き、太刀お口に含て、馬より大地に飛落て、貫かれてぞ死にける、敵も御方も惜まぬものこそなかりけれ、中にも木曾はあはれ剛の奴哉、弓矢取る身は、加様の者おこそ召仕ふべけれと、返々も惜まれける、