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太平記

赤橋相模守自害事附本間自害事
十八日〈○元弘三年五月〉の晩程に、洲崎一番に破れて、義貞の官軍は、山内まで入にけり、懸処に本間山城左衛門は、多年大仏奥州貞直の恩顧の者にて、殊更近習しけるが、聊勘気せられたる事有て、不被免出仕、未己が宿所にぞ候ける、已に五月十九日の早旦に、極楽寺の切通の軍破れて、敵攻入なんど聞へしかば、本間山城左衛門、若党中間百余人、是お最後と出立て、極楽寺坂へぞ向ひける、敵の大将大館二郎宗氏が三万余騎にて扣たる翼中へ懸入て、勇誇たる大勢お、八方へ追散し、大将宗氏に組んと、透間もなくぞ懸りける、三万余騎の兵共、須臾の程に分れ靡き、腰越までぞ引たりける、余りに手繁の進で懸りしかば、大将宗氏は取て返し、思ふ程戦て、本間が郎等と引組で、差違へてぞ伏給ひける、本間大に悦て、馬より飛で下り、其頭お取て鋒に実、貞直の陣に馳参じ、幕の前に畏て、多年の奉公多日の御恩、此一戦お以て奉報候、又御不審の身にて空く罷成候はヾ、後世までの妄念共成ぬべう候へば、今は御免お蒙て、心安冥途の御先仕候はんと申もはてず、流るヽ涙お押へつヽ、腹摂切てぞ失にける、三軍おば可奪帥とは、彼おぞ雲べき、以徳報怨とは是おぞ申べき、〈○下略〉