[p.1030][p.1031]
太平記
十七
瓜生判官心替事附義鑑房蔵義治事義助〈○脇屋〉も義顕〈○新田〉も、鯖並の宿より打連て、又敦賀へぞ打帰り給ける、援に当国の住人、今庄九郎入道浄慶〈○中略〉嶮阻に鹿垣おゆひ、要害に逆木お引て、鏃お調へてぞ待かけたる、義助朝臣是お見給て、是は何様、今庄法眼久経と雲し者の当手に属して、坂本まで有しが、一族共にてぞ有らん、其者共ならば、さすが旧功お忘じと覚ぞ、誰かある近付て、事の様お尋きけと宣ひければ、由良越前守光氏畏て、承候とて、隻一騎馬お磬(ひかへ)て、脇屋右衛門佐殿の合戦評定の為に、杣山の城より金崎へ、かりそめに御越候お、傍存知候はでばし、加様に道お被塞候やらん、若矢一筋おも被射出候なば、何くに身お置て、罪科お遁れんと思はれ候ぞ、早く弓お伏せ、甲お脱て、通申され候へと高らかに申ければ、今庄入道馬より下りて、親にて候卿法眼久経、御手に属して、軍忠お致し候しかば、御恩の末も忝く存候へ共、浄慶、父子各別の身と成て、尾張守殿に属し申たる事にて候間、此所おば支申さで、通し進せん事は、其罪科難遁存候程に、態と矢一つ仕り候はんずるにて候、是全く身の本意にて候はねば、あはれ御供仕候人々の中に、名字さりぬべからんずる人お、一両人出し給り候へかし、其首お取ぶ、合戦仕たる支証に備へて、身の咎お扶り候はんとぞ申ける、〈○中略〉越後守見給て、浄慶が申所も、其謂ありと覚ゆれ共、今迄付纏たる士卒の志、親子よりも重かるべし、されば彼等が命に義顕は替るとも我命に士卒お替がたし、光氏今一度打向て、此旨お問答して見よ、猶難儀の由お申さば、かなく我等も士卒と共に討死して、将の士お重んずる義お、後世に伝へんとぞ宣ひける、光氏又打向て此由お申に、浄慶猶心とけずして、〈○中略〉さらば早、光氏が頸お取て大将お通し進らせよと雲もはてず、腰の刀お抜て、自腹お切んとす、其忠義お見に、浄慶さすがに肝に銘じけるにや、走寄て光氏が刀に取付、御自害の事、努々候べからず、げにも大将の仰も、士卒の所存も皆理りに覚へ候へば、浄慶こそいかなる罪科に当られ候共、争でが情なき振舞おば仕は候べき、早御通り候へと申て、弓お伏、逆木お引のけて、泣々道の傍に畏る、両大将大に戚ぜられて、〈○中略〉射向の袖にさしたる金作の太刀お抜て、浄慶にぞ被与ける、光氏は主の危お見て、命に替ん事お請、浄慶は敵の義お感じて、後の罪科お不顧、何れも理りの中なれば、是お聞見る人ごとに、称嘆せぬは無りけり、