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大三川志
十一
日已に暮に及びければ、〈○元亀三年十二月二十二日〉信玄兵お収め、勝お全す可と思惟して、千人お撰び、我兵お追はしめ、其余は自ら率て兵お退く、其追丘は、蝟毛の如く、我軍に逼る、神祖必死に決し給ひ、〈○中略〉夏目吉信は、〈○註略〉浜松に在て、城楼に登て戦場お望に、我兵甚危急なれば、急ぎ馳来り、神祖の返し戦んとし給ふ御馬お扣へ、諫奉て曰、凡兵は、一挙の勝負に限る可らず、速に浜松に入らせ給へ、神祖聴給はずして曰、城下に於て敗軍す、恥辱雲可らず、況や退く可んやと、厩卒に轡お放せと命じ玉へども、放さねば、鐙お以て蹴させらる、吉信声お励くして、女、轡お放つ可らずと雲ひながら、馬より下り、自ら轡お取り諫て曰、身命お軽んずるは匹夫の事也、進退共に身お全し、後日の勝利お謀玉ふこと、大将の任ならずや、命お捨給ふ時に非ず、神祖の曰、女が言是也と雖も、我此所にある事、敵能知れり、一歩も退かば、急に追んこと必せり、吉信が曰、臣蹈止り、御諱お犯し呼はつて、公に代ん患へ給ふこと勿れ、神祖許し給はず、吉信敢て聴かず、畔柳助九郎武重お見て謂て曰、我が此処に止て戦死せん、女其隙に公お護して入城せよ、武重共に忠死せんと雲、吉信固く制し、御馬お浜松の方へ引向け、槍お以て御馬の尻お叩き走らしめ〈○註略〉遂に御諱お称し、十文字の槍お振ひ戦ひ、敵二人お殺し、従臣二十余人と共に忠死す、〈○註略〉此間に、神祖兵お退け給ふと雖も敵兵猶慕ふ、〈○下略〉