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老談記

中国老人語に曰、或時、吉川和泉守といふ者の嫡子、吉川式部当番にて、鳥取にゆくとて、其支度するお、親和泉守聞て、式部に申ける様は、今更前に異見する事もなし、たゞ士の道にそむかぬやうに心得べし、餞別おせんとて、新敷拵へし首桶壱つ、其中に綿おつみ入、小脇差一腰添て差出し、此二品こそ、我等が此度の引出物なりと申ける、式部事、鳥取に往て城番せしに、程なく秀吉公、中国征伐として発向せられ、手初めとして、鳥取の城お攻かこみ玉ふといへども、毛利家より急に後詰もきたらざれども、堅固に籠城しければ、秀吉公より、種々扱ひおかけて、謀られけるに、式部は少しも属せずして、つひに毛利家の為に、親の餞別に与へたる脇差にて、いさぎよく腹十文字にかき切て、件の首桶に我首お入させ、秀吉公の陣所へ送りける、城お預かるものゝ手本なりと賞し、又其親の仕付も、前代未聞なりと、中国までも沙汰しける、