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駿台雑話

手折手にふく春風
近代にては武田勝頼の臣、小宮山内膳が節義こそ、最感歎するに余りあれ、内膳は勝頼近習の臣たりしが、天正年中の事にや、内膳人と争訟しける事ありつるに、勝頼讒人の言おもちひて、内膳が不直に決しかば、内膳罪なくしてながく逐しりぞけらるゝ程に、是非なく家に蟄居して、数月お経けるが、織田の兵甲州に乱入して勝頼敗北し、故府おすてゝ温井常陸介お先とし、才四十二人の兵と、天目山中に奔るときこへしかば、内膳身おもて赴急しが、道にて追付けり、さきの内膳と争ひし者、並に讒せし者お問けるに、いつれもとくに逃去ぬといへば、内膳慷慨としてがたへの人にいひけるは、君我おもちひずして棄給ふに、今出て其難に死せば、君の明お損するに似たり、又死せねば臣の義おやぶる、よし君の明お損ずるとも、臣の義おば傷らじとて、四十二人同じく国難に殉ひけり、此難に甲州の士皆勝頼お叛て逃去しに、四十二人ばかり、傾覆流離の間につきまとひて、いさゝか二心なく国難に殉ひしは、いづれも節義の士と申べし、中に内膳は讒おもて寃枉にあひしおも怨ず、従者の列にもあらぬ蟄居の身として、外より来て赴死し事、其忠烈はるかに温井等が上にあるべし、武田滅亡の後、東照宮内膳が忠義おふかく感じ給ひ、其子なくして祭祀の絶るお哀み給て、内膳が弟小宮山又七郎おめし出されしが、其後小田原陣の前、武職の人おきはめられしに、又七郎おもて御長柄鎗奉行に仰付られける、其時内膳が勝頼に封して、忠義ありし事おくはしく仰たてられ、誠に武士の手本とおぼしめす、又七郎いまだ弱年なれども、兄内膳が忠義お臓じ思召によりて、重き職お命せらるゝよし、上意ありなんけるとぞ、誠に死後のめいぼく、忠義の験と申べし、