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落穂集
前編九
一右十七日〈○慶長五年六月〉の夜に入、鳥居元忠、被申上儀有之、御前〈○徳川家康〉へ出られ御用相済候以後、今度当城〈○伏見〉の御留守居人数少にて、一入苦身可致旨、仰有ければ、元忠被申上候は、作恐私儀は左様には、存不申候、今度会津御発向の儀は、御大切の儀にも有之候得ば、一騎一人も御人多に被召連可然奉存候、然者弥次右衛門、主殿助儀も、御共にめしつれられ、当城の儀は、私御本丸の御留守居お相勤、五左衛門など、外郭の〆りおさへ申付候はゞ、事済可申様に奉存候旨被申上候得ば、重て御意被遊候は、今度四人の面々お以、留守居と有之さへ、人少にて如何と思ふに、其方は人多と申は、何お以て左様には申ぞと、御尋有ければ、彦右衛門被申上けるは、今度会津表益被遊御発向候御留守に於て、隻今の通世上無事にさへ有之候はゞ、私五左衛門両人にて御留守の御用は相足可申候、若又御下向の御跡に於て、世の変も出来、当城お敵方より攻囲み申と有之に至候ては、近国に後詰加勢お請申べき御味方とても無御座候得ば、たとへ隻今の御人数の上に、五倍七倍の御人数お残し置れ候ても、此御城お堅固に相守申儀の可罷成儀にては無御座候、然れば御入用の御人数お、当城江被相残とあるは、御不宜の様に私儀は奉存と被印よければ、其以後は兎角の仰も無御座、〈○中略〉長座ゆへ、立兼候お被遊御覧、御児小姓衆お被為召、彦右衛門が手お引と被仰付候とや、其節御納戸役の衆御前へ被出候得ば、御袖にて、御涙お御拭遊され被成御座候故、暫く指扣其後被罷出候とや、