[p.1037][p.1038]
武辺咄聞書

一大久保相模守忠隣は、小田原の城主也、幼少にては、新十郎と雲、家康公御寵臣也、殊に大久保七郎右衛門忠世が子なれば、御心安第一也しかば、いかなる事か有けん慶長十八年の冬、家康公関東御鷹野の砌、極月六日中原にて、大久保相模守預り之人、馬場八右衛門、一通の訴状お上る、これ相州隠謀の企有事お申上る、此段本多佐渡守信正に御相談、其後京都江吉利支丹御制禁の御使に、相州お被指遣、京都へ著候時分お考、慶長十九年正月廿二日に、小田原の城お被召上、京都へは其段被仰遣しかば、板倉伊賀守勝重上使として、相模守忠隣が宿所へ被参ける、折節相模守は将基おさして被居けるが、家人密に忠隣に告けるは、伊賀守上使は、御流罪の御意なるよし、いかゞあらんと咡けるに、相州少も不騒、将基さし終りて後、上下お著し、伊賀守に対面す、伊賀守上意の趣申渡し、其上井伊掃部頭直孝に召預させ給間、江州の配所へ可罷越旨也、相模守畏奉存候旨、御請申上る、家人どもは是お聞、無実の讒により、身お亡さんより、一戦して可打果と哼ければ、是より京中騒立、すはや相模守が切て出るは、火お掛べしといふ程こそあれ、上お下へ走散、東西南北唯乱のごとし、二条の御城にも、御門々おさしかため、皆矢筈お取、火縄おはさみけるに、相模守は是お聞、小田原より持来る甲胄兵杖、一つも不残伊賀守方へ渡しければ、洛中皆鎮りける、能仕方、又忠臣也といひあへり、その後配所にて井伊掃部頭、相模守へ対面し、何とて申分けもせられぬぞ、近頃残多き事に被申ければ、忠隣は、申わけお仕ば、御赦免疑な七、左候へば、讒言お聞召入られ候、君の非お顕すに罷成候間、縦無実に身お亡すとも、いかでか主君の非お顕はさんと被申ける、実に忠信義理ふかき人也と、世挙て感ぜぬはなし、