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駿台雑話

伴大膳
大坂冬御陣の前に、片桐市正、摂州茨木の城に拠て、御味方いたせしに、〈○中略〉大坂より兵おつかはし、茨木の兵お取巻て攻ける程に、尼崎の城へ援兵お乞しかども、城より救はざりしかば、茨木の兵のこらず討死しけり、〈○中略〉大坂と一たび御和睦の後、京二条の御城にて、此事御僉議ありしに、武蔵守の家臣に伴大膳といふ者は、上〈○徳川家康〉にもよく御存知ある者なりしが、御前において段段申わけいたしけれども、御憤いまだとけず、今においてとやかく申候ても、眼前に味方の兵うたるゝお見ころせし事、武蔵守心底いぶかしく思しめさるゝよし仰られ、其まゝ御座おたゝせらるゝお見奉り、脇指お抜てうしろへなげすて、御側へ匍匐より、御小袖の裳にすがり、是は御なさけもなき上意にて候、いかに御姫さまの御腹より生れ候はずとて、武蔵守も御孫とは思しめされず候や、たゞ今申此わけ仕らずしては、いつ申わけ仕るべく候やとて、はら〳〵と涙おながしつゝ申上ければ、其誠お感じおぼしめさるゝにや、よし今はきゝわけゝるぞ、いそぎ帰りて武蔵守に申きかせて、安堵させよと、上意ありしかば、大膳手お合せ平伏して、御礼お申上て、まかり出けり、其跡にて御前伺候の衆へ仰られしは、あの大膳が父おも、大膳といひて、武蔵守が父三左衛門いまだ弱年にて、庄三郎といひし時の馬卒なりしが、長湫の戦に庄三郎が父勝入、兄庄九郎討死したると聞て、同じく討死せんとて、乗つけゆかむとするお、彼が父大膳、其時は何がし男とかいひて、馬の口お取しが、しいて馬お引返して、つれてのきけるお、庄三郎怒て、はなせ〳〵といひて、馬上より鐙にて頭お続けざまに、二三町が間蹴つけし程に、面より血の爆のごとくながるゝおもがまはずして、ついにのかせけり、其時討死せば、むなしく死して、家も絶なまし、しかるに播州一国の主となりしはがの大膳が其時の働にて、存命したる故ぞかし、さすが親の子ほどありて、あの大膳も主のために、身おかばふ事なきは、ういやつとおもふなり、今の世にわれらが前へいでゝ、さきのやうなる事おいふべき者は、外には覚へず、武蔵守よき人おもちたると、上意ありしとなり、