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常山紀談
十七
七日〈○元和元年五月〉の軍に、信仍〈○真田〉兵お出せしが、秀頼の出馬おすゝめんため、子の大介お、城にかへしけり、大介今年十六に及ぶまで、片時もかたへむ離れ候はず、たゞ、今討死のきはに逃たりと、人のいはんも口惜く候、去年母上にわかれ奉りし後、文のたよりに、ながらへて相見んは、ねがはしけれども、合戦の場にて、必父うへと同じ枕に討死せよ、苟にも名こそおしけれと、誡められしといひければ、信仍城中へ帰れといふも、秀頼公の御ためなり、父子とも、とてものがるべきや、やがて冥途に逢べきお、しばしの別れお惜むこそ口惜けれ、とく城にまいれとて、取つきたる手お引放せば、大介名残おしげに、父お見て、さらば冥途にてこそとて引返す、信仍大介お見おくりて、落る涙おおさへ、昨日誉田にて痛手負しが、よはる体の見えざるは、よも最後に、人に笑はれじ、心安しといひけるとかや、〈○中略〉大介は、城中に入、秀頼に従ひて、蘆田曲輪の矢倉にこもりて、父の事お尋ねけるに、討死せしと聞て、それより物もいはず、母のかたみに賜はりける、水晶の珠数お首にかけ、秀頼の自害お待居しかば速水甲斐守、大介に向ひて、組討の武勇たくましきふるまひして、痛手負れしと聞ゆ、和平にて、君も城お出させ給ふべし、真田河内守信吉の方へ、人おそへて送るべしといへども、ちつ、とも動かず、〈○中略〉大介も矢倉の中に死して、父子同じく豊臣家の為に亡びたり、