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窻の須佐美

上総国市原郡姉崎といふ所の民、総兵衛と雲者、人の鉄炮お借り持て、鳥おうつとて、あやまちて隣家の妻女お殺しつ、初よりたくみてせざりし事なればとて、死刑一等おなだめられて、伊豆の島に流されて、田宅は官に入りけり、その子万五郎三歳、其妻は懐姙なりし、後に女子お生みてける、その僕市兵衛といふもの、夫婦心お合せ、ねんごろにいたわり養ひけり、万五郎十五歳になりけるまで、主従の礼うや〳〵しく、昔ありし時の如くなりけり、市兵衛家貧して養ひの遂ざらん事おうれひ、一人ある女お三四年已前に江戸につれ来り、人の許につかへさせけり、猶行衛のおぼつかなく妻にいひけるは、かうして二人が中に子など出きては、主お養ふたづきなからん、今よりのちは夫婦の交おたちなんとて、ふしどお一つにせずして、十二年お経ぬ扠亦総兵衛が罪おゆるされん事お、流罪の年より初て、月毎に江戸に来て府に訴へてやまず、宝永三年ばかりにや、其子供のしたひ悲侍のみならず、その父なる翁八十に及びしが、生涯のうちただ一目見て直に死すとも事足りなんと、旦夕なげき申に忍び得ず候、某おながしつかはし、総兵衛お返し給らせ度と、わりなく乞けるに、奉行萩原近江守、彼がたゆみなく年月乞ぬるお憐み、或時問はれしは、女十年あまり月毎に乞侍る、此事にうちたひて、田作のさわりとならん、如何せるやとありしかば、出る時には甥に候作十郎と申すものに、跡の事あづけ置て江戸に出、四日がほどに帰候と申、さあらば旅宿のつくのひも、そこばくならんはいかゞとありしに、私浅草なる旅屋にやどりしが、うちつゞき来り候にこそ、何事にやと問し故、事の由お語り候得ばあわれがりてその費お取らず、其上にいとも真実にもてあつかひ候と申けり、近江守お初め諸司大に感じ、かゝるものお褒美あらば、おのづから徳化の一つならんと、そのよしお上達し、捻兵衛は免されぬ事なれば、御ゆるされありがたし、姉崎に折から主なき田一町あまりありしお、家一つおそへてたまひぬ、今よりは願ふ事なかれと有しに、市兵衛申けるは、浅からぬ御めぐみにて候へども、主の罪ゆるされん事おこそ年月願候に、其沙汰はなくて、某にかゝる御めぐみにうるほひ候まゝ、同じくは此田宅お万五郎にくだしたび候ばやと、またなく乞ければ、いよ〳〵其志おめで聞へて、又上達ありて、万五郎には外の田宅お下したまひにけり、賤き民といへども、世にまれなる、忠貞なりとて、林祭酒の文作りて、世にもひろごりしお、まのあたり見たりし、