[p.1047][p.1048]
芸備孝義伝
三/安芸国佐伯郡
玖波村新屋七郎右衛門家来喜兵衛
喜兵衛は津田村の産なり、二十ばかりの頃にや、玖波駅に来りて、新屋七郎右衛門が家につかへ、慎勤ること二十五六年ありて、主もたのもしき者に思ひ、其家の乳母おこれに妻あはせ、家おもあたへたるが、生理(すぎはひ)おはげみ、やゝ資も出来りしに、七郎右衛門火災にいひて、屋宅倉庫のこらず茨となりぬれば、喜兵衛ふかく愁ひて、又主の家にかへり、夫婦はかりいとなみて、宅倉もとのごとく造りけり、また年頃己がたくはへたる財物も底お払ふて打出し、家業も奮のごとく続かせける、此時七郎右衛門死して、子の半右衛門が代なり、半右衛門また不幸にして、七三郎といふ小児と老たる祖母とお世に遺し、妻とともに皆病てうせけり、喜兵衛猶もたゆまず、夫婦力お極て輔養ふ、およそ衣服飲食みな二人してつかふまつり、敢て人にさせしめず、殊に誠おあらはせしは七三郎が疱瘡の時、渠等おもへらく、此家の断続まことにこゝにきはまれり、今心力お尽さざらめやと、六七十日の間、昼夜いだきかゝへて護ける、両親世に在とも、いかで如此なし得べきと、見人皆称歎せり、喜兵衛子なければ、養子せよと勧る人おほけれど、かつて承引ず、主の家かく危ければ、私のあと思ふに暇あらず、たゞ此人おもり立て、此家おこすべきの外、さらに念なく候とぞいひける、己がふやしたる身帯も、己がものとは思はずして、皆主の家の有とのみおもへり、享保十五年十二月、其忠義お賞して、米そこばく賜ける、