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孝義錄
一/大和
忠義者庄六
庄六は添上郡京終村庄兵衛が子にして、郡山の城下藺町の町人畳屋忠兵衛が下男也、完延元年より十年おかぎりて、忠兵衛が家につかふ、しかるに忠兵衛眼おやみて、畳さす事お得ず、子共あまたありて家貧しくなり、夏冬きすべき衣もたらざりけれど、庄六は主のかげによりて、畳さすわざおまなび得たる、そのめぐみわすれがたしとて、隻忠兵衛が家のたちがたき事おのみなげき、いとまあれば、人にやとはれなどして、そのあたへお主の家のたすけとなし、さきにとらせし衣おも質物となしたれば、寒き日も袷きて走りまはりつ、又その業によりて二三里へだゝりたる所に、日ごとにゆく事ありしが、まだ夜ふかきにやどりお出、夜にいりてかへれば、かならず主の安否おとふ、忠兵衛酒お好みぬれば、つねに求めて是おすゝむ、主もいたはりて遠き所にゆき、夜おおかしてかへるも、なやましかるべければ、先のやどりにとまりいて、その業はてゝかへりねかし、もしかはれる事あらば、人おしてしらしめんなどいへど、一夜もかへり候はねば、こゝろもとなく候とて、夜ごとにかへりき、さて十とせみちて親のもとにかへるべきが、主の艱難見すてがたく、庄兵衛がもとにゆきて、ことし季みちぬれば、かへりてつかふまつるべきお、主のあまりにまつしくおはしければ、あまたの子ども人とならんまでは、かれにつかへまほしきといふに、親もゆるして、その心にまかせてけり、宝暦十三年十一月、領主より銭そこばくの賞おあたふ、まことやその比庄六行状といへる、ひと巻の草子お、みやこにて梓にちりばめけるとなり、