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肥後孝子伝
後編下
下城(しものじやう)村つや
忠女あり、名おつやとよべり、小国の郷、下城村の七兵衛といふ民の家にて生育しつかひ女なり、其家至りて貧しければ、彼が十七に成りけるとき、銭十貫文の質にして人につかへしむ、それよりつや仕へのいとまおはかりて、色々に心お用ひ、或は夜いたくふくるまでも、一人おき居て、苧おうみ綿おつむぎ、それお人にうりて、いさゝかつゝの銭お得てたくはへおき、十三年にしてみづから身おあがなひて家にかへりぬ、其家いよ〳〵貧し、因て又彼お質にする事初めのごとしいよ〳〵身お苦しめて、六年にして又みづからあがなひてかへる、其折しも家に不幸多くして、主人ことに苦しめり、つや居ながら見るに忍びず、みづから出て人につかへ、一年の身の代おおくりて、其主人お助く、されど補ふに足らず、つやおもへらく、かくては事に益なしと、又みづから身お質にして、銭十貫お得て主人の急お救ひ、身お苦しむる事、いよ〳〵つとめて、四年にして又みづからあがなふて帰る、かへりて其家のやうおうかがふに、一つも甘(くつろ)ぐお見ずして、日々に其迫るお見る、つや又みづから身お質にする事前のごとし、此時に至りては主人夫婦年老力衰て、其身農業にたへず、されど外にたすくる人なし、つや是お深く悲しみ、暑き日寒き夜、身には全き衣だに著ずして勤めうごき、色々に心お用ひ身おくだき、二年にして又みづからあがなひて家にかへり、専ら力お耕作に励して、主人夫婦お養ふ、彼出て人につかふる事、凡五度、としお経る事二十六年、銭お得て主人おたすくること四十余貫、皆自らあがなへり、その艱難辛苦おもひ遣るべし、〈○中略〉安永四年、官府賞して銭若干お賜ふ、