[p.1052][p.1053]
孝義錄
四十六/豊後
忠義者林助
林助は、豊前国宇佐郡宇佐村の者なるが、国東郡高田村にて徳兵衛といふ者の手代となれり、二十六の年、この家にきたりしが、三年ほど過て徳兵衛病にふし、子の金作はまだ五つなれば、林助にいふやう、我病いゆべしともおぼえず、金作が十七八ならんまで、側さらず居てあきなひの道お萩へ、此家おつがせよと、懇にいひ置てうせければ、林助遺言おまもり、金作おもりたてんと心お尽し、いさゝかもわたくしのことなかりき、金作ははや十六になれば、名おも徳兵衛とあらため、十八の年妻おむかへて、男子一人おまうけゝり、徳兵衛ふと病にかゝりしのちは狂気のやうになりければ、療養に力おつくしけれど験もなくことさら夫婦の中らひも不和になれば、林助様々にいひすかせども、終に妻おば離別せり、心ぐるひたるものなれば、何の弁もなく、子の小太郎おさへいたくにくめば、林助がはからひにて、その子は一族の許にあづけ、ひたすら商ひに力お用い、少しはたくはへも出きしお、取出してつかひすつれば、親徳兵衛が遺言おいひいで、涙お落して異見おくはへしに、その誠のとゞきたるにや、狂気せし者も、しばしは慎みてぞ居たりける、一族の者も林助に妻おむかへ、小太郎がおひ立ぬるまで、うしろみくれよと頼みけるに、妻子に惑ひて、あらぬ心の出んもはかりがたし、はや十二にもなり給ひければ、やがて相続させまいらせんとて、妻おも迎へざりしとそ、このよし村の者より訴へければ、完政元年十二月、領主より米おあたへて賞しけり、