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平家物語

法皇御せんかうの事
おなじき廿日の日、〈○治承三年十一月〉法住寺殿おば、軍兵四めんおうちかこんで、平治にのぶよりの卿が、三条殿おしたりしやうに、御所に火おかけ、人おば、みなやきほろぼすべきよし聞えしかば、つぼねの女房、あやしの女のわらはにいたるまで、〳〵物おだにうちかづかずして、我さきにとぞにげ出ける、前の右大将むねもりのきやう、御車およせて、とうと-と申されければ、ほうわう〈○後白河〉えいりよおおどろかさせおはしまし、成親、しゆんくはんらがやうに、とおき国、はるかの島へもうつしやられんずるにこそ、更に御とが有べしともおぼしめさず、しゆじやう〈○高倉〉さてわたらせ給へば、政務の口入するばかりなり、それもさらずは、じこんいご、さらでも有かしとおほせければ、むねもりのきやうなみだお、はら〳〵とながひて、いかにたゞ今さる御こと候べき、しばらぐ世おしづめんほど、鳥羽の北殿へ御かうおなしまいらせよと、父のぜんもん〈○平清盛〉申候と、申されたりければ、更ばなんぢやがて御ともつかまつれとおほせけれども、父のぜんもんのきしよくにおそれおなして、御ともにはまいられず、これに付ても、あにの内府〈○平重盛〉には、事のほかにおとりたる物かな、一年もかゝる御目にあふべかりしお、内府が身にかへて、せいしとゞめてこそ、今日までも御心やすかりつれ、今はいさむるものゝなきとて、かうはするやらん、行末とてもたのもしからずおぼしめすとて、御なみだせきあへさせ給はず、さて御車にめされけり、公ぎやう殿上人、一人もぐぶせられず、北面のげらうと、さては金行といふ、御りきしやばかりぞまいりける、御車のしりには、あまぜ一人まいられけり、此あまぜと申は、やがてほうわうの御ちの人、紀伊の二位の御事也、七条お西へ、しゆしやかお南へ御かうなし奉る、あはや法皇のながされさせおはしますそやとて、心なきあやしのえつのお、えつの女にいたるまで、みななみだおながし、袖おぬらさぬはなかりけり、