[p.1061]
神皇正統記おN 後醍醐
高氏は申うけて、東国にむかひけるが、征夷将軍、ならびに諸国の総追捕使お望みてけれど、征東将軍になされて、こと〴〵ぐはゆるされず、ほどなく東国はしづまりにけれど、高氏のぞむ所達せずして、謀叛おおこすよしきこえしが、建武二年乙亥十一月十日あまりにや、義貞お追討すべきよし、奏状お奉る、すなはちうちのぼりければ景中騒動す、追討のため中務卿樽良親王お上将軍として、さるべき人々もあまたつかはさる、武家には義貞の朝臣おはじめて、おほくの兵お下されしに、十二月に、官軍引しりぞきぬ、関々おかためられしかど、次の年丙子の春正月十日菅軍またやぶれて、朝敵すでにちかづく、よりて比叡山東坂下に行幸〈○後醍醐〉して、日吉の社にぞまし〳〵ける、