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古今著聞集
八/孝行恩愛
白河院御時、天下殺生禁断せられければ、国土に魚鳥の類絶にけり、其比まづしかりける僧の年老たる母おもちたる有けり、其母魚なければ、物おくはざりけり、たま〳〵求えたるくひ物もくはずして、やゝ日数ふるまゝに、老の力いよ〳〵よはりて、今はたのむかたなく見へけり、僧かなしみの心ふかくしてぜづね求れ共得がたし、思ひあまりて、つや〳〵魚取すべもしらねども、みづから川の辺にのぞみて、衣にたまだすきして魚おうかゞひて、はえといふちいさき魚お一つ二つ取てもちたりけり、禁制おもき比なりければ、官人見あひてからめとりて、院の御所へいて参りぬ、先子細おとはる、殺生禁制の世にかくれなし、いかでか其由おしらざらん、いはんや法師のかたちとして、其衣お著ながらこの犯おなす事、一かたならの科のがるる所なしと、仰含らるゝに、僭涙おながして申やう、天下に此制おもき事みな承る所也、たとひ制なぐ共、法師の身にて此ふるまひ更にあるべきにあらず、但我年老たる母おもてり、隻われ一人の外たのめるものなし、よはひたけ身おとろへて、朝夕の喰たやすからず、我又家まづしく財もとたねば、心のごくにやしなふに力たへず、中にも魚なければ物くはず、此ごろ天下の制によりて、魚鳥のたぐひいよ〳〵得がたきによりて、身力すでによはりたり、是おたすけん為に、心のおき所なくて、魚とる術もしらざれ共、思ひのあまりに川のはたにのぞめり、罪におこなはれん事、案のうちに侍り、但此取処の魚、今ははなつともいきがたし、身のいとまおゆりがたくば、この魚お母のもとへつかはして、今一度あざやかなる味おすゝめて、心やすくうけ給ひおきて、いかにも罷ならんと申に、是お聞人々涙おながさずといふ事なし、院聞しめして、孝養の心ざしあさからぬおあはれび感せさせ給て、さま〴〵の物共お馬車につみ給はせて、ゆるされにけり、とぼしき事あらばがさねて申べきよしおぞ仰られけるとなり、