[p.1075][p.1076]
太平記

赤坂合戦事附人見本間抜懸事
二人〈○人見四郎入道恩阿、本間九郎資貞、〉共に一所にて被討けり、是まで付従ふて、最後の十念勧めつる聖、二人が首お乞得て、天王寺に持て帰り、本間が子息源内兵衛資忠に、始よりの有様お語る、資忠父が首お一目見て、一言おも不出、〈○中略〉資忠今は可止人なければ、則打出て、先上宮太子の御前に参り、今生の栄耀は今日お限りの命なれば、祈る所に非ず、唯大悲の弘誓の誠有らば、父にて候者の討死仕候し、戦場の同萇ろの下に埋れて、九品安養の同台に、生るヽ身と成なせ給へと、泣々祈念お凝して、涙と共に立出けり、石の鳥居お過ると見れば、我父と共に討死しける人見躅郎入道が書付たる歌あり、是ぞ誠に後世までの物語に、可留事よと思ければ、右の小指お食切え其血お以三首お側に書添ら、赤坂の城へぞ向ひける、城近く成ぬる所にて、馬よじ下り弓お脇に挟て城戸お叩き、城中の人々に可申事ありと呼りけり、良暫く在て、兵二人櫓の小間より、顔お指出して、誰人にて御渡候哉と問ければ、是は今朝、此城に向て、打死して候つる、本間九郎資貞が嫡子、源内兵衛資忠と申者にて候也、人の親の、子お憶ふ哀み、心の闇に迷ふ習にて候間、共に討死せん事お悲て、我に不知して、隻一人討死しけるにて候、相伴ふ者無て、中有の途に迷ふ覧、さこそと被思遣候へば、同く討死仕て、無跡まで、父に孝道お尽し候ばやと存じて、隻一騎相向て候也、城の大将に、此由お被申候て、木戸お被開候へ、父が打死の所にて、同く命お止めて、其望お達し候はんと、慇勤に事お請ひ泊に咽でぞ立たりける、一の木戸お堅めたる兵五十余人、其志孝行にして、相向ふ処、やさしく哀なるお感じて、則木戸お開き、逆木お引のけしかば、資忠馬に打乗り、城中へ懸入て、五十余人の敵と、火お散てぞ切合ける、遂に父が被討し跡にて、太刀お口に呀て覆しに倒て、貫かんてこそ失にけじ、惜哉、父の資貞は、無双の弓矢取にて、国の為に要須たり、又子息資忠は、ためしなき忠孝の勇士にて、家の為に栄名あり、〈○中略〉大将則天王寺お打立て、馳向ひけるが、上宮太子の御前にて、馬より下り、石の鳥居お見給へば、〈○中略〉
まてしばし子お思ふ闇二迷らん六の街の道しるべせん、と書て、相模国の住人本間九郎資貞嫡子源内兵衛資忠生年十八歳、正慶二年仲春二日父が死骸お枕にして、同戦場に命お止め畢ぬとぞ書たりける、