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年山紀聞

孝子弥作常陸の国行方郡玉造村に弥作といふ民あり、生れつき実やかにして、母につかへて至孝なり家に田産なければ、傭力(ひとにやとは)れてわたらひける、寒夜にも衣衾なければ、母のさむきおかなしみて、弥作がきたる物お脱て母におほふに、母もまた弥作がさむからん事おうれへて、たがひにあひゆづりぬ、母のこと葉にそむくおおそれて、もとのごとくうちきて、母のよく眠りたるおうかゞひて、ひそかにおほひきせて、あとまくらおつくろひとゝのへ、弥作も其かたはらにふしぬ、あるひは炉火おたきて母おあたゝめ、弥作は火おまもりながら、居ねぶりなどしけり、人にやとはれ、もしは役にさゝれて他に出る時は、となりむかひの家にゆきて、母おかへり見たびねかしとて、なみだぐみてたのみつゝ出けり、手つから焼飯して、午餐にあたふれば、いつもうちいたゞきてふところにいれて、ひねもす人のためにはたらきながら、くらはずして、夕さりは家にもて蹄り、母にあたへて、おのれはけふは某が酒のませ、或は某が何くれくはせ侍れば、腹ふくれたりといひのがれける、母時々頭痛の病おくるしみけるに、弥作おのれが膝お枕にあたへて、撫さすりなどいたはりていやしけり、母魚肉おおもふ時は、弥作ちかき水辺にはしり行て、何にてもあさり帰りて、味おとゝのへすゝめける、おほよそよのつね母にあたふる飲食おば、神仏などに奉る物のごとくに、きよめえらびて、おのれは其余りのあら〳〵しく、よごれたるおたべける、母もし寺院の談義お聞まほしくいひ、或はしたしきものゝ方へゆかむなどいふ時は、弥作手おひき腰おおし、脊中に負などしつゝ、母の面白がるべき物語うちして行帰ける、弥作四十歳に及ぶまで、かくおこなひければ、其里人もいとおしきものにいひあひ、郡奉行などいふ人どもゝ伝へ聞て、不便なる事に思ひけり、過し延宝二年、西山公〈○徳川光国〉在藩のおりふし、たま〳〵玉造へわたらせたまふ時、此事お聞しめして、御嘆賞のあまり、御馬の前にめしいでゝ、田畠黄金など賜ひつゝ、御感浅からざりけり、それより家の内もやゝゆたかになりて、いよ〳〵孝志おあつくして、同じき八年に母身まかりける時も、奴婢おたのまず、みづから医師の方へ行、あつらへてはしり帰りては、煎じあたへなど、志おつくし、なき跡のかなしみは、他人のなみだおさへおとさせけり、其後に妻おむかへて、農業おつとめければ、ほど〳〵に富さかへけるにつけても、あはれ母の世に有し時、かくあらましかば、よろこびたまはましものおとて、くやみなきけり、元禄七年甲戌に六十歳、なほ世におこなひ侍るとぞ、