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孝義錄
四十/讃岐
孝行者政右衛門
政右衛門は香川郡西庄村にて、高わづかに三升六合と、林一畝十五歩おもてる百姓なり、母ははやくうせぬ、父甚平後の妻おむかへしが、女子一人おうめり、継母の心かたましく、政右衛門お仇の如くににくみしかば、終に父の心おもうしなひ、家おもおひ出されしお、いさゝかも恨とせず、さま〴〵にわび聞えしが、父母ともに聞いれねば、せんかたなく出行、小家おつくりて妻おもち、子もありしが、折々父のもとに、時々の物おおくりなどして、その怒りおなだめけれど、かつてゆるす事なし、其後父物ぐるはしくなり、眼おさへ病てなやみし時、継母政右衛門およびて、甚平は女が父の事なれば、朝夕の食お贈るべしといふに、政右衛門よろこびて、日毎に食おおくりて、その時おたがへず、継母また昼飯おも贈るべしといひしに、いよ〳〵よろこび、数年の間日に三度の食お贈りしとそ、かくて甚平が家お売しろなして、政右衛門がすめるうしろの方に、小き家つくりてうづりしに、孝養怠る事なかりけれど、継母はなおいかりのゝしり、政右衛門が家に童部の多くてがしがましければ、とく出ゆけといふに、いさゝかも恨る事なく、妻子お携へ家お出しに、村の中のもの憐みて、竹木おあ亢へければ、新に家おたてんとせしお、継母のきゝて、我家古くなりに亢れば、その竹木お以て建かへんといふに、いなみもせずその心にまかせしお、かの竹木あたへしものゝ聞つたへて、政右衛門にこそあたへしが、なさけなき母の家お修理せんためにはあらずといふお、政右衛門はせめぐりて、さま〴〵になだめ、母の家だにつくりかへなば、我望たりぬといふに、いよ〳〵其志お感じ、ついにしかせりとぞ、政右衛門が妻もよく舅姑につかへてつゝしみふかく、日夜に家事おいとなみて、すぐれたるものなりけり、天明五年十月、領主より褒美して、政右衛門に米おあたふ、