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有徳院殿御実紀附錄

品川の辺、放鷹ありしに、御道のほとりお、先駆の徒士警蹕したるに、賤しき壮夫一人地上に坐して、七十有余の老婦お介抱してありければ、徒士等かけより、追たつるといへども退かず、既に成らせ玉ふと聞えしかば、徒士等も、やむことお得ず、かの壮夫おとらへ、糺明しければ、壮夫恐れわなゝきながら、答へけるは、今日はものへまいるべしとて、老母お負て出けるが、途中にて母にはかに病おこり、急にはしることのかなひがたければ、しばしかきいだき、背抔さすり居しなり、たゞひたすらにゆるさせ玉へといひけるさま、いと哀に見えしかば、其よしつぶさに聞えあげしに、親おいたはりて、其身の罪お忘れたるは、誠に孝子なりと仰ありて、白銀五枚お賜はる、ごれしかしながら、日頃孝心のふかきおもて、かゝる幸の有し成べし、世人もあまねくもてはやせり、かくて其冬、小松川の辺に、放鷹し玉ひしに、其地のえせもの、さきの品川の孝子お学び、老たる嫗一人お負ひて、道のかたはらにうづくまり、同じことお申ければ、御供の人人、かく偽おかまへ、上おあざむく罪軽からず是おゆるし玉はゞ、此後またかゝるくせもの、出来べきもはかられずと申けるお聞召、上おあざむき褒銀お貪らむとするは、憎むべきことなれど、あしき事お学ぶにあらず、偽ても親に孝おつくす者出来らんは、ねがはしき事なり孝、行すれば、いつはりにても、褒銀おうると思はゞ、親にまことの孝おつくす者も亦多く出来べしとて、また先のごとく、褒賜せられしとそ、町奉行大岡越前守忠相、このありがたき盛慮お、世人にあまねくしらしむべしとて、市井に其よしお令しけるとなり、