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桃源遺事

那珂郡野上村に、与次右衛門〈初名喜平次〉と申百姓あり、その妻の名おば安といへり、〈○中略〉間もなく、与次右衛門あしき病お引受、人のまじはりもなく、見苦しき体に罷成候に付、与次右衛門、女房に対し、〈○中略〉こと葉お尽し、頻に暇の事お申候へば、女房兎角のいらへもせず、既に自害せんと仕候故、与次右衛門驚き取とめ、感涙お流し、此上はとかふ雲べきやうなし、足下お悼み思ふ故にこそ、暇おばやり候はんと申候、左あらば老母お痛り給はり候へ正て、その後は暇の事申出さゞりける、それよりして、姑及び病夫お痛はり候事、益あつく、〈○中略〉看病のひま〳〵に、女の身ながら、鍬お取て、田おかへし、畑おうつて、夫お養育仕候、或時西山公〈○徳川光国〉其辺御通り被成候処に、かの女房、田おうなひ居申候お被成御覧、女の身として、田おうなひ候は、非道なる主人に仕へ候者か、又は継子などにて、其親の悪みにて申付候か、とかく子細有べき事と覚しめし、御下部の者お以、御問せ候得ば、右の段お申上候、西山公一々聞召れ、御感歎なゝめならず、其家へ御立より、彼病夫おも御覧被成、〈○中略〉田畑永代作り取に仕るべきよし被仰付候、