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太閤記

勝家切腹之事
夜に入とひとしく、殿守之上にも下にも、ひろま其外櫓々などにも、酒宴初りけり、〈○中略〉小谷の御かたへ、勝家さし給へば、一二酌て、又返し侍りける、〈○中略〉盃もたび〳〵めぐりければ、漸終りなんとす、勝家小谷の御かたに被申ける、御身は信長公之御妹なれば、出させ給へ、つゝがもおはしますまじきと有しかば、小谷御方なみだぐませ給ふて、去秋の終り、岐阜よりまいり、斯見えぬる事も前世之宿業、今更驚べきに非ず、こゝお出去ん事、思ひもよらず候、しかはあれど三人之息女おば出し侍れよ、父之菩提おも問せ、又みづからが跡おも、弔れんためぞかしと、のたまへば、いと安き御事なりとて、其よし姫君に申させ給ふ、〈○中略〉夜半の鐘声殿守に至りしかば、御二所深閨に入ぬ、〈○中略〉若狭守、文荷斎、〈○中略〉勝家のおはしまし侍る五重に上り、下はかく仕廻申候、御心しづかに沙汰し給へと申上しかば、さすが最期はよかりけり、男女三十余人おなじ煙と立上りぬ、